本日もご訪問いただき、ありがとうございます。
今回は社長のお母さんの話をさせてもらいます。
社長のお母さんは中津市は植野のカラオケ喫茶で、社長が小学校1年生の頃から店主として働いてきました。
今で言うシングルマザーで2人の子供を育てながら来る日も来る日も頑張ってきたそうです。
夢だった自分の家も建てました!!すごいパワフルな女性です。
そんなお母さんは例えるなら竹のような性格で、いらないものはバッサリ切り捨てながら大切なものだけを一生懸命守ってきたんだと思います。
しかし、明るく気丈なお母さんは先月くも膜下出血で緊急入院し手術を受けることになりました。
始まりは6月のある日、お母さんから電話があり「目が二重に見えて運転できないから眼科に連れて行ってほしい。」とのことでした。
私が病気療養中というのもあり、普段よっぽどのことがない限り病院に連れて行ってなどお願いされることがなかったので、午後からでいいよ。とお母さんは言ってたけど、これは早めに行った方がいいなと思い、すぐに迎えに行きました。
お母さんの家に着いて顔を見ると「ん??右目と左目の位置が違う気がする…何かがおかしい。」直感とでも言いましょうか、何か違和感を感じ、これは脳外科に直行したほうがいいと自分なりに判断しました。
脳外科で何もなければ眼科に行けばいいし。とお母さんと話をし脳外科へ。
その道中にお母さんが道路の線の見え方がおかしい。と言っていたので少し急ぎました。
脳外科に着き、コロナも関係してかいつもより患者さんが少なくて問診に呼ばれるのも早く、問診ののちMRIへ入っていった。
一人で待っている間、何故か嫌な予感がしていた。
そしてお母さんがMRIから出てきて、しばらくしてドクターに呼ばれた。
MRIの画像を見せられ、ドクターから言われた言葉は「脳の血管の先にコブができ、更にその先にも小さなコブができていてそのコブが目の神経を圧迫しています。そしていつ破裂してもおかしくない状態です。」とのこと。
その時15年くらい前にも今回とは反対の場所にコブができ、足の付根からカテーテルを入れてコイルを詰める手術をしたことを思い出し、お母さんが自分でそのことを話した。
ドクターは「このままここで手術をするか、救急車で以前手術をした小倉記念病院に行くか今すぐ決断して下さい。」と。
しかし私は嫁の立場。勝手に決められるわけない!!
社長も社長の妹も仕事中でここにいない…。
「家族に電話連絡だけさせて下さい!!」と慌てて社長に電話をし、妹と連絡をとってもらうことに。
一度家に帰りたいとお母さんは言ってたけど、もちろんそんなことは許されず点滴のルートをとられたり救急車に運ばれる準備に入った。
救急車が到着する前に社長の妹が病院に着き、ドクターから説明を聞き救急車に一緒に乗り小倉記念病院へ向かった。
もう少し遅かったら破裂していたと聞き、あの時お母さんの異変に気が付かず言われるがまま眼科に行って何時間も待っていたら…と思うと心臓がバクバクしてきてめまいがした。
そのまま私も急いで家に帰り、取り急ぎ入院に必要そうなものをバッグに詰め込み社長と一緒に小倉記念病院に向かった。
自分自身が入院したことが最近だったからなんとなく必要なものがすぐに思い浮かんで良かった。
とにかく破裂しないことだけを祈りながら高速を走った。
後30分しないくらいで着くというときに社長の妹から電話があり、今救急車が病院に着いて動かすことも最小限にしないと危ないくらい緊迫した状況らしく着ていた服などはハサミで切られ、呼吸器を着け精密検査に入ったとのこと。
この時ひとりで心細くて不安でいっぱいだっただろう。
なんとか手術前に私たちも病院に到着し、ドクターからの説明を受け同意書にサインをし手術が始まった。
手術の方法は以前と同じ方法で、足の付け根の血管から治療用の細い管(カテーテル)をいれ、頭の動脈瘤までさらに細いカテーテルで到達します。プラチナ製のコイルを動脈瘤の中に詰めていくと、動脈瘤の内部で血栓化がおこり、血液がはいらなくなり、破裂を防止するという方法。
しかし今回はコブにさらにコブができているため開頭術になる可能性もあると言われた。
そのまま4時間半。コロナの関係もあり待合室でじっと3人で待った。
ガラスばりの待合室で、不安を吹き飛ばすようにくだらない話をしたが、三人とも午後くらいから何も食べていないのにお腹すらすかず、水分だけを取りながらずーっと待った。
手術室からドクターや看護師が出てきて、お母さんが呼吸器を着けたままICUに運ばれて行った。
「どうなってるの?カテーテルですんだの?」不安でいっぱいでした。
すぐにドクターが説明に来て、今回も以前と同じ足の付根からカテーテルを入れる手術でいけましたと。
本人も麻酔が切れてきたのでICUで綺麗に処置してから、少しだけ面会できるとのこと。
その前にドクターから詳しい説明があり、大きい方のコブにはコイルを詰めましたが、小さいコブの方にはコイルを詰めることの方が危険と判断しました。
なので目の違和感は今後ステロイドを使っての治療となりますが、すぐに元に戻るわけではありません。
そして治らない可能性も…と説明を受けました。(この文面が確実かはわかりません。パニックの中で聞いた言葉なので多少の言葉の違いはあるかもしれません。)
説明を聞いてからICUへ案内されました。
お母さんどんな状態なのか…。
ベットをへ近づくといつもチャキチャキしているお母さんが色んな医療器具を装着され横たわっていました。
しかし意識もあり、妹や社長の言葉に返事もできたし毒も吐けたので安心して腰が抜けそうになりました。
心のなかでは本当にホッっと安心したと思いますが、取り乱すこともなく、とても気丈に振る舞う社長と妹でしたが、私はお母さんから名前を呼ばれてそばに行き手を握った瞬間「お母さん良かった〜」と泣き崩れました。
しかし握り返してくれたお母さんの手の力強さに大丈夫!!乗り越えた!!と確信が持てました。
命の儚さと強さをこの日、同時に見た気がしました。
同じ日の午前中に、命のギリギリのラインにいて緊急手術になるほどの人が、ここまで話せてワガママまで言える。
私の判断が間違っていれば、今頃葬儀だった可能性も十分にあったと思うとお母さんの命が助かったことが本当に奇跡で本当に良かったと安心からの号泣でした。
例え私の判断が間違っていたとしても、社長や妹が責めることはなかったでしょう。
しかし自分自身がずっと自分を責めて生きることになったと思います。
そして長い入院生活が続き、コロナのため面会もできず遠くから回復を祈ることしかできませんでした。
後遺症が残っている目の回復には思いのほか時間がかかるようだったけど、中津の病院に転院するころには見た感じ随分よくなっているように感じました。
そして中津でしばらく入院したのちお陰様で、無事に退院の日を迎えることができました。
病院関係者の皆様、本当にお世話になりました。ありがとうございました。
しかし本人はまだ見る角度によっては二重に見えるとのことで、車の運転などはしばらくできません。
足元の段差が見えなくて転倒する可能性もあることから、家族で話し合いこれを機にお店を辞めようという決断になりました。
36年間もの間続けてきたお店を引退すること、目が治るかの不安。
きっとお母さんの気持は誰にもわからないと思います。
しかしお母さんは吹っ切れたように明るく「こうなってしまった以上、私は前向きに考えてできることをやっていくよ!!」そう話すお母さんの力強さに逆に周りが救われるような気持ちになりました。
もちろんこの言葉が全てではないと思いますが、そう口にだして生きていこうとするお母さんを私たちも前向きに支えていこうと考えています。
私は感受性が強すぎて、36年に幕をおろすと考えただけで感極まるので最後の日には裏方で徹して表には出ないつもりです。笑
お母さんから「私はね、TVなんかを見て涙を流すような人は情が深いわけじゃないと思っているのよ。それはただ感受性が強いだけでね。感受性が強くなくても情が深い人は沢山いるしね。」と、先日チクっと刺され凹んだばっかりなので(笑)
きっと皆さん、きれいな話ばかりじゃなくこんな嫁姑のイザコザを期待していると思うので、ちょこっと入れてみました。
今まではお互いに忙しく深い話をする機会もなかったから、今回のことで色んな話をする機会ができて、お母さんこんな思考なんだ!とか、こんな価値観なんだ!とか、こんなセンスなんだ!とか改めて知ることができてちょと距離が近づいた証拠なんでしょうね。
今回この記事を書くことは社長からお願いされ、ありのままを書いてくれと頼まれました。
正直私たちは中津だけで生きていないので、世間体とかを気にせず生きていますが、お母さんはこれからもずっと中津、この狭い地域で生きていくので同調圧力と言うか、自分たちのことはあまり話したくないのではないのかな…包み隠さず書くことでお母さんが嫌な思いをしないかな…と私は考えたのですが、もう一度言います。これは社長からの依頼です!!
そしてこれまでお母さんに携わっていただいた全ての方に感謝の気持を伝えたく、25日に来れない方にも感謝の気持が伝わりますようブログに書かせていただきました。
36年間本当にありがとうございました。
この記事を見たお客様で最後にママに会いたいという方は奮ってご参加下さい!!
※この記事は社長からの依頼ですが私の主観と感じた気持ち、言葉で書いたものなのでまたお母さんに「ちょっと私の気持ちと違う!!」とチクっとやられるかもしれませんが、あくまで主観で書いたものなのでご了承下さい。笑